恥じなき国の
恥じなき国の恥じなき時代に、「人間」でありつづけることは可能か?と、辺見庸は問うています。厚顔無恥で軽薄な者たちを見聞するにつけ、この辺見の指摘が胸に突き刺ささります。
多くの日本人が、自らの加害者性と愚鈍とを自覚しないまま、被害者面し、マスメディアと風潮に洗脳され、時代に棹差して異口同音のキーワードを口にしています。
欝状態はそんな状況下では自然なこと。心臓神経症もいわば時代の公傷だと開き直り笑い飛ばす。そんな病を治癒することを第一義にしない。いかに「生きる」かです。北海道浦河のベテルの家の人々は立派です。
死刑制度廃止、天皇制の欺瞞打破、金融経済の投機性の改革のための理論構築、「忍び寄るファシズム」傾向の暴露と痛撃。自衛隊に労働組合を。
最大の戦犯である天皇ヒロヒトが自決せず、処刑されずに延命したことが、戦後の日本人の精神構造を腐敗堕落させました。物質的豊かになったと錯覚し、モノの亡者に皆が陥って精神の自立を喪失してしまったのです。商業主義、現代資本主義の下卑な微笑みに屈せず屹立したいものです。金銭に淫し逃避する精神の卑しさに、私たちは、直接・間接に加担しているのではないでしょうか。
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2008年07月23日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
秋葉原 無差別殺傷事件
25歳の男が、路上で7人を殺害するという事件が東京秋葉原で起きた。男は、正午過ぎに交差点に車で突っ込み、その後、次々と通行人を刃物で刺した。7人を殺したほか10人にも重軽傷を負わせた(2008年6月8日)。
例によって評論家たちがまことしやかなことを言い、メディアは銃刀規制やネット問題などに言及し「二度とこのような事が起こらないように」との論調で締めくくる。近年、同様の事件が頻発している状況において虚しさと悲しさだけが残る。
この事件、政治的な意図はまったくないようで、またしても「病んだ社会」から噴き出てきたものだ。そのようななかで世界の国々の人が日本のこの事件をどう見たのか。事件の本質をいかに探究するのか。いわゆる「グローバルな視点」から、日本のこの「異常」は、評価を大きく低下させた。安全で豊かで「美しい」日本なんて嘘なのだ。
地方から出てきた内向的な性格のこの殺傷犯を、適応努力を欠いた自己中心的な人間と誹るだけではすまない。男は時間給与1200円の派遣社員であったという。殺伐とした労働環境のなかで、劣等感にさいなまれながら未来に希望を持てず自暴自棄になっていったとのことだ。

新自由主義、市場原理のもとに競争があおられ、何をしようにも自己責任の一言で切り捨てられる。思えば「後期高齢者医療制度」が「老人切捨て」策と批判されていた只中に起こった事件であった。
隣国の韓国では、狂牛病の疑惑が払拭されないまま「アメリカ産牛肉」全面輸入を打ち出した政府の措置に100万人デモが起こったのであった。
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2008年06月11日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:6
地域商業と市場主義
大都市はもちろんのこと、地方都市の街にも商業ビルが立ち並び美観も決して良いとはいえない。そればかりでなく郊外に大型ショッピングセンターができて市街地では空き店舗が目立つ。駅前通り商店街はシャッター通りと呼ばれたりしている。商業近代化が叫ばれ、業態間、地域間の商業施設の競争が市場主義で促された結果である。地方と大都市との格差がそれに拍車をかけている。
地元商店街の店主たちは、均衡のとれた商業の発展のために大型店の出店に反対したが、今やその気概や理念が失せてしまっている。中心市街地の小規模店舗の経営者たちは高い固定資産税と相続税に悩み、チェーン店などに売却したり貸したりしている。商才に長けたごく一部の商店主の店舗だけが生き残っていて、それらの店では後継者もいる。
商業近代化の背景には、近代的経営を展開する大型店によって消費需要の増進を図ることや、輸出品の拡大を狙うアメリカの思惑があった。そして行政も街づくりにグランドデザインを欠いたまま市場原理による地域商業の「発展」を推進し、大型店出店による雇用機会増加と税収入が念頭にあったから地元商業には自助努力を言うにとどまっていたのである。
ヨーロッパの地方都市などでは街づくりが大切にされている。商業主義や近代化に偏することを避け、中小専門店や老舗を育む風土がある。歴史の尊重や市民意識が、公共空間としての街を大切にしているのだ。
戦後日本の経済復興と経済成長は、商品化と消費経済の繁栄を国民にもたらした。それが軽薄で無個性なものであったことを、全国各地の商業地区が明確に映しだしている。一部では観光に関連させて独自の商業地区形成を推進して成功をおさめている例もあるが、やはり都市として街として、地元の生活者、市民が暮らす息遣いがもっとほしい。
今後、街を市民や生活者重視にいかに転換させることができるか。適正な情報によって把握できる情報態勢のもと、都市・街の多極的な側面から地域商業の構造と機能の再構築を図る。そして、規模の経済性からではなく専門商店やコミュニティビジネス、ベンチャー的起業店等を輩出する必要があろう。
街にひっそりとたたずむ小さな名店。そんな店に出会うと嬉しくなる。
控えめで、一途なところを少しにじませながら営業している。 名店の息遣いを感じる。
その店のマスターの人柄が良い。もちろん提供される料理は、うっとりさせる魅力を秘めている。
絶品 「ローストポーク」 ファンの多い「ベーコン・ステーキ」

Dining Pietra (店内・石窯風景)
(http://www.span-cutting.com/pietra-index.html)
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2008年05月24日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:5
実存的情報資本主義へ
類的存在という人間の本源的資質の具現方法を,物的生産手段の私的所有・資本主義的所有の止揚に求め,最終的には私有を廃絶するというプログラムがはたして理想を実現する途なのかどうかについては,実際の経済のありようや所有論と人間意識・行動をはじめ総合的な再考が求められる。
マルクスは生産手段の公有(共有)化を軸に生産関係を変革することによって,類的存在としての人間は本来の自由な資質を発揮できるとした。これについては,共産主義革命後のいくつかの国家において,解放された労働の喜びが経済社会に充ち溢れ生産力や生産性が飛躍的に向上することはなかったことを認めざるを得ない。
例えばソ連型集権的計画経済制度は重工業以外の部門においてうまく作用しなかったのであって,それについて反革命国家群に対抗せざるを得なかったことが革命の不成就の原因になったとか,指導者の資質に問題があってマルクスの理論には根本的に誤りはないとする説もあるものの,革命後の現実は直視するべきだ。
(姫路 千石茶屋)
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2008年05月05日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:5
Cafe考
Caféは不思議な空間です。そこは人が憩い楽しむ場所なのですが、それだけが目的なら公園や広場、ホールもありますし、レストランなどの飲食店では食事などをしながら人は時間を楽しみます。
最近ではファストフード店で若い人たちが楽しくおしゃべりしながらドーナツやハンバーグを食べている姿を見かけます。ホテル・旅館はいろんな機能をもった憩いと交流の施設です。
でもCaféは、同じ憩い楽しむ公園やレストランとは異なる機能・不思議な雰囲気をもっています。
では、Cafeはそれらとどこが違うのでしょうか。
Caféには独自な世界があるのです。
Caféは小さな空間です。そしてそこへ行くのは1人でいくか2人です。たまに3〜4人で行くこともあります。Caféは閉じられた空間で、インテリアが工夫されたり音楽が流されたりしていわゆる空間環境を大切にします。Caféは自由な空間です。コア(核)になる何かがあるわけではありません。そしてCaféでコーヒーや紅茶、ジュースなどを飲む。ビールや各種の酒といった飲み物や食事ができるCaféもあります。
そこにいるのは短ければ十数分から小一時間程度で、数時間もいたりはしません。他の客がいることを意識しますから、あくまで「カジュアル」な気分で時間を過ごすことになります。
ヨーロッパなどではお酒に酔って気分を高揚させたり、飲んでわいわいしゃべるCaféも多いですが、あくまで、しらふで会話を楽しんだり、一人意識の緩和を図りリフレッシュする場所です。
Caféには強い人は似合いません。権威や権力ともCaféは無縁です。Caféはあらゆる階級や階層の人を受け入れますが、これ見よがしの態度や姿勢をとるのは場違いなのです。権威の象徴もここでは通用しません。庶民の感覚で過ごす場なのです。
Cafeは弱すぎる人も似合いません。誰かが何かをしてくれるとか、自分に気構えの姿勢を欠いたまま癒してくれるのを期待しに来ても何も得られないでしょう。傷ついた動物が自ら傷を癒すように少なく
とも自らのとは自らなんとかしなければなりません。
カフェは人の生活のコミュニケーション・ノード。語らいやエポケー(意識の白紙化)の空間。カジュアルな心的解放空間、自分がフュージョン(融合)する空間。日常と非日常の狭間スペース。カフェは現代人の無縁空間。権威構造の対極にあるのですから。
わけの分からないままマインドコントロールされ自分で考えることを失っていないでしょうか。観念の世界に棲んでいて、人は時として「意識の発酵」が生じて、それが人間らしいのですが、観念のお化けに憑かれたままだと健全な日常の平衡感覚が変質します。やはりエポケーでしょうか。長期の旅にも同じような効用がありますが、カフェは身近な日常のなかで「旅」をする場所かもしれません。
異形のCafe
1)「ディープ」なカフェ
カフェはカジュアルな性格が特徴。でも、なかにはそうではなく「ディープ」なカフェがあります。
決してフォーマルにならず権威主義に向かうこともなく、サブカルチャー世界またはアンチ日常の中にあり続けるカフェです。
怪しさが心地よい空間とでも言いましょうか。
隠れ家的なカフェバー。意識の深奥、闇の中に身をおくような感覚になるカフェ。そこのマスターは、もしかしたら祭司であるかもしれない。ジャズやミニコンサート、一人芝居が時々開催される。夜は隠れ家バーに変身する。抵抗者たちのアジト、芸術家たちのたまり場、野心家たちの拠点。
2)インターネットカフェ・個室喫茶
最近ではインターネットCaféというのもできましたし、以前には個室喫茶や歌声喫茶というのも見られました。これらはどうもCaféとは少し違った方向にあるような気がします。基本的に「気軽な会話」(自分との会話も含んで)が欠けていたり、オープン空間性がなかったりするからです。もちろんそれらを否定はしませんが、このCafé考からは逸れたものといえましょう。
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2008年03月06日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:5
詩的人生
人生は私的であるともに詩的である。
生活は散文的だと思うかもしれないが、詩的人生を秘めている。
たしかに人は実際の生活では、散文的どころか「はしたない」暮らしをしている。
資本主義経済の市場原理と競争原理は、生き方に無関係に「はしたなさ」を
強いるからだ。
それを自覚しながら生活するか、無自覚に「はしたない」生活を送るかの差があるが、
その差は意外に大きな意義を持つ。人生の詩はその自覚から生まれる。
FC2 Blog Ranking 京都 江畑
2007年12月05日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:4
感性
人の感性は天性のものである。若い時期ほどそれは鋭く、磨きをかけるほど鋭さを増す。だが、両刃の剣であり、何かの拍子に傷つくと知性、心理、精神までもが悪影響を受ける。
教師の何気ない一言に子供が学習意欲を失うことが多い。教師だけでなく友人や親などの言動によって心を痛める。壊れやすい感性の子供ほどその確率が高い。結局、向上心を萎えさせ受験競争に背を向け脱落していく。落ちこぼれていく。
落ちこぼれと一言では片付かない事情がある。頭が悪い、やる気がない、態度が悪いといったことで簡単には片付かないのだ。当人にとっては、暴力的な言動なのだ。
言われたとおりにわき目もふらず良い子は、感性が少し鈍いのかもしれない。感性を押し殺しているのかもしれない。
鈍い感性の持ち主ばかりでは世の中ろくなことにならない。
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大阪 キタ 「つた次郎」 あなご丼(昼のみ)
2007年11月18日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
Busan
韓国第2の大都市である
Busanを旅した。港町、巨大なチャガルチ市場、急速に近代化した都市、といったイメージのBusan。
実際、その活気はものすごかった。高層ビル・アパート群と路地の市場・露店が調和し、西面や釜山大学街の若者、それにビジネスに精出す人、温泉場にできた足湯を楽しむ高齢者たちはみな溌剌としていた。けばけばしく乱立する看板がBusanの街全体の活気を演出していた。
近代歴史館に展示された写真などを見ていると日本の侵略統治の姿が生々しいものの、今のBusanはそれを完全に乗越えてエネルギーに満ちていた。
サムギョプサル(豚の三枚肉)の旨さはこの上ないものだった。チェジュ島出身の人がやっている金五亭という店はそのなかでもピカイチの店といってよい。海鮮鍋の温泉ヘムルタンという店もBusanならではの味わい深い店だった。若い客の多い捕盗庁という変わった名前の焼肉店では牛肉ソグムグイはなかったが、サムギョプサルは安くて旨かった。
言葉の不自由さは、市民たちの親切によって十分カバーされ、「近さ」と「親しみ」を現地で知ったのだった。


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2007年04月02日 | 未分類 | トラックバック:0 | コメント:0
民営化とは
私有財産制、そして、そもそも所有とは? 何をどのように所有し活用するのか?
民営化が話題になっているが、それはそのなかで位置づけられるべきではないのか?
民営化とは「国や地方公共団体が経営していた事業主体を一般民間企業に転換すること」とされる。だが、民営化は経営主体が公から私へ転換するというレベルでのみ捉えるものではなく、歴史的視点から大きく深く捉えなければならないものと考えるのである。
1)太古、人間の農業生産のための場は土地であった。漁業の収穫(生産)の場は海であったし、狩猟の場は広野や山であった。それ以外では林業・鉱業も土地が生産現場であった。それらの場は個人所有から、大地主、封建領主所有へと移った。封建国家や自治体も所有するようになった。そして生産手段、収穫手段として道具・設備が使われた。
2)産業革命以降のブルジョア国家では土地とか海といった自然から脱し、工業製品の生産手段として、機械・設備・労働力が使われ私有された。第一次、二次産業は相対的に低下し、農産物の生産目的の土地の所有形態の意義は低下した。
3)やがて資本が私有財産制度のなか発達し資本主義社会が始まった。それらは商品という形態をとった。産業国家時代に入ると個人資本家は少なくなり、会社)(法人)が主導し、資本、金融までもが商品化された。商品(生産手段や貨幣という特殊な商品も含め)の私有が産業社会を主導しそのフローとストック経済が高度化した。商品による価値を実現する流通の手段の私有も行った。それへの反対行動として共産主義国家が革命によっていくつか誕生した。
4)高度な産業社会を維持するために公私の混合形態がとられるようになった。国家と産業資本の相互利用・補完関係が構築され運営されるようになったのである。そのなかで「共」という形態の割合が小さいながら増加し協同組合がそれを担った。資本主義国家の経済効率と成長に比べて共産主義国家におけるそれらが低いこともあって共産主義国家が崩壊した。なかには「社会主義市場経済体制」という新しい形態の国家も出現し、そこでは国家が生産手段という商品所有をせず、管理を国家で行う形態が出現しつつある。共産主義国家における産業資本導入による経済運営での「所有と経営」の分離である。
5)商品(生産・流通手段と資本)の私有と蓄積だけでなく、情報の私有と本源的な蓄積が会社(連携も含む)主導の産業社会、さらに国家と産業資本の相互利用・補完関係化において機能する。やがて情報(その中には商品化されるものもある)とそのネットワークが機能するようになった。グローバル産業ネットワークと国際金融ネットワークであり、その背景に国際エネルギー戦略と国際軍事ネットワーク戦略がバックグランド・システムとして準備されている。
6)情報の私有と蓄積に対し反対する運動は、国家を越え私有を越えてインターネットによる無政府主義的な形で起こる。そこではユビキタス社会の主役は個人であると主張される。だが、巨大産業資本や国家がその意図とエネルギーを収奪し、または管理・支配するように動く。それがどのように決着するのか、21世紀以降の人類の運命にもかかわってくる。
このように、もの(商品)の生産流通から貨幣(商品)の生産・流通へ、そして、情報の生産・流通へと、私有と管理・活用・支配の対象は変遷してきた。
今後、情報の生産・流通は、私有ではなく、いかに「共」として確立できるかが重要になる。まさに情報コモンズの構築・運用であり、情報協創社会主義の実現である。
情報生産手段(コンピュータ)と情報流通手段(インターネットなど)の私有に偏りがなく、国有が相対的に小さいゆえに大衆主導が可能にすると考えられるが、主要ノードを巧妙に管理する国家戦略は決して侮ることはできない。
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2007年03月18日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
「非反」精神
現代の日本人は私生活の隅々まで「商品化」の卑しさに侵されている。
テレビをはじめとするマスメディアによる情報にかぎらず、資本主義経済・社会体制経済に毒されて「商品」になってしまっている。そのことに無自覚になっている。
思想のいかんにかかわらず、また、プロセスのいかんにかかわらず、結果的に権力に迎合する精神は卑しいことを銘記する。それが批判精神の基礎である。
そして、日常生活では権力と無縁の生活をし、状況と認識によっては反権力を貫く。それが非反精神とでも呼ぶべきものであり、批判精神だと思う。
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2007年01月26日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
税金の無駄づかい
沖縄に伊江島という小さな島があります。この島に、今は使われていない飛行場があることをご存知ですか?
1975年7月に開催された沖縄海洋博の閉会式に、皇太子夫妻(現在の天皇・皇后)が東京から直行便で来るために、この飛行場はつくられました。とってつけたように定期便もありましたが、海洋博の終了後、実質上、閉鎖されています。那覇空港から海洋博会場の本部町まで、車でも2時間ほどで来られるのに、那覇空港は使わず、まったく新しい空港を海洋博の会場と目と鼻の先にある小さな島に建設したのです。
那覇から海洋博会場まで途中の陸路が「危険」というのが理由(本音)でした(森口豁『誰も沖縄を知らない』筑摩書房、212-213)。
島にはもともと米軍基地飛行場と旧日本軍飛行場があります。どうしてもというなら、これらを使えばよかっただろうに、米軍とか旧日本軍ということで避けたのです。姑息というほかありません。
天皇家のための空港、巨大な税金の無駄遣いです。マスコミが税金の無駄遣いを指摘するなら、この天皇制にかかる巨大で欺瞞に満ちた税金の無駄遣いこそ告発するべきでしょう。
参考:伊江島空港 http://gpzagogo.s8.xrea.com/ieshimaap2.html)FC2 Blog Ranking
2006年12月26日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
べてるの家
人間は本来、ひとりでは生きてはいけない弱い存在であり、その弱さを認め合った上でこそ、あるがままの自分を出すことができ、安心して生きていけるのではないでしょうか(『べてるの家の本』p240)。
精神障害者は、たまたま精神に障害があるだけで差別されてしまう。皆、本来、弱者なのに「強者」や「弱者」さえも精神障害者を差別する。
「べてるの家」は精神障害という病をもった人たちが共同して住む家であり、同時に海産物の生産販売や介護用品の宅配事業をする店でもあります(『同上書』p224)。北海道浦河にあります。
ノーマイライゼーションはその根本理念を的確に捉えなければなりません。そうでないと、哀れみ、偽善、義務での対応になってしまうのです。「べてるの家」の人たちは、そんなこととは無関係に、素朴に明るく元気に自らの病気を病気として引き受け、生活している心やさしい人たちです。
毎年秋には「べてるの祭り」が名古屋で開催されます。「べてるの家の本」という本も刊行されています。テレビでも幾度か放映されました。
生きるって何か? 人間って何か? 病気、弱者、共同とは何か?いろんなことを私たちは学ぶことできます。こんな世の中、精神を病まずに厚顔無恥になったり差別者側になって自身を保つことに必死にならざるを得ないと大方の人は言い聞かせながら競争社会のなかでもがいている。
すぐれた感性と精神の持ち主は病まざるをえない現代。だから、精神を病んだ人はすべて弱者であり狂人であり悪人なのか。そんな考えは、いろんな事情で日本に来た外国人のすべてが犯罪者、犯罪予備軍だと決めつけ抑圧し排除する論理にも通じてくる考えではないでしょうか。FC2 Blog Ranking
2006年12月24日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
勉強嫌いな大学生
日本の大学生、約250万人のうち、勉強が好きな学生はどのくらいいるだろうか?積極的に勉強が好きで、日々、大学で授業を受け、教員と話したり学生同士で共同研究している学生はどのくらいいるのだろうか?ふと、そんなことを思ったが、自問自答の結果は「きわめて少ないだろう」というものだった。もちろん、理工系と人文・社会科学系では違うだろうし、医薬看護系、芸術系となるとまた違うだろう。大学院ともなると、さすがに勉強嫌いとは言っておられないだろう。それに国公立大学と私立大学でも違うだろうし、いわゆる「有力大学」とそうでない大学では異なるだろう。
大学生の学力低下に関する一般的な調査はあるが、このテーマでの詳しい調査結果にはお目にかからない。ましてや、学生の本音や実態に迫ったリサーチはない。
大学生なのだから勉強が好きな人がほとんどだろうと思うと大きな誤りのようだ。ましてや「なんとなく大学に入った学生」「仕方なく入学した(不本意入学の)学生」などは、本当は勉強が好きではないのだ。保護者に高い授業料を払わせ、自由な時間をろくに勉学するでもなく無為に過ごす。アルバイト、趣味、部・サークル活動、交遊などが時間消費のために使われる。恋愛の一つや二つはする。小さな旅行もする。そして、何とか卒業単位をとって大卒の証書を得る。その前に、学歴と学校歴、それにほんの少しの常識で就職先から内定を取っておく。これが学生生活のすべて。
大学格差と学生
一部の「エリート養成大学」の学生は好む好まざるにかかわらず勉強する。受験戦争の勝者意識があるから、大学での勉強がいやになったら周囲の多くの「敗者」を見て優越感を感じて奮起しなおす。少なくとも自分は勉強が嫌いではないと思い込んでいる。この種の学生が社会に出ていわゆる出世コースに乗るのかもしれない。小さいころから受験勉強に無批判な「良い子」であって、問題意識を自覚しても深入りせず、思考停止するのだ。本来、競争社会の「ペースメーカー」でしかないのだが、なんとなく各部門のリーダーになってしまう。
いわゆる「二・三流以下」とされる大学の学生たちは特に問題だ。いわゆる大学というレジャーランドで、なんとなく時間を過ごす。近年では大学でろくに楽しむことすらできずレジャーランドでもなくなりつつある。午後、友達と会って「おはよう」とあいさつし、大教室の後ろのほうに座っては私語し、または眠って時間をすごす。最近の学生は、あたかもターミナル駅か何かのように大学に寄ってきて、2,3コマの授業に出て時間が来ればさっさと帰宅する。アルバイトに精を出す学生も多い。コンビニ、ガソリンスタンド、飲食店など、深夜や早朝までバイトする学生。特に何もない日は、家や下宿で昼間から翌朝までだらだら時間をすごす。それでも単位だけは取らなければならないからレポートや期末試験のための講義ノートは融通しあう。これならまだましなほうで、一部の学生は「登校拒否」「引きこもり」で大学に行かない。大学だからもちろんのこと安易に単位を与えない。すると1、2年次の単位修得数が一桁という学生もでる。そして留年する。保護者はそのかん授業料を払い続ける。
大学生と勉強
では、このような日本の大学生をどのように考えればよいか?時間浪費の4年間。「どうせ厳しい実社会が待っているのだから、その前に自由にさせておいてもよいのでは」、「眠たい授業でも黙って受講する癖をつけ、大学教員という変な人種がいることを認識させ、アルバイトで少しは実社会を垣間見させるだけでも意義がある」、「今に始まったことではない。戦前戦後、日本の大学は多かれ少なかれそうだった」と言っていて良いのだろうか?
大学自体にも大きな問題がある。保護者もいいかげんだ。何よりも、これを座視している社会や国にも問題がある。受験競争の結果としての「格差社会」は大学のランキングで明らかである。どの大学に入学したかによる新しい「身分制度」が出来上がってしまっているのだ。それによって似非リーダーが多く輩出されたり、差別される人間が出たり、フォロワーでしかないと一生思い込む人間を生む日本の大学制度。社会人になる手前の青春期、本来、すばらしい時期であるはずなのに。
勉強嫌いな大学生には大きくは二種類ある。中学、高校から勉強嫌いな学生であり、残りは大学に入ってから何となく嫌いになった学生である。
小さいころから勉強嫌いだった勉強嫌いな大学生は、本人の学力面の資質・才能で劣ること、本人の心がけ、家庭環境をはじめとする教育環境などで勉強嫌いになると言ってしまえばそれまでだが、本当にそうなのだろうか。何かのきっかけで勉強嫌いになってしまうことが多い。その何かのきっかけが問題である。家庭でがみがみ勉強せよと言われ続けて「切れてしまった」生徒、「教師や親の何気無い言動」にショックを受けた生徒、「鋭く尖ったな感性で挫折し立ち直れず迷路に入った生徒」「勉強ができないと思い込まされてしまった生徒」などさまざまである。家庭や学校で何らかの「手助け」があれば勉強嫌いにならなかったかもしれないのだ。塾や学校のテストで「自分はだめだ」と刷り込まれる生徒が、それを強く意識し続けると勉強嫌いになる。そういう生徒が何となく大学に入学して一念発起するか、偶然、学ぶことの楽しさを知ることもあるが、学ぶことが好きになることは少ない。
大学に入って勉強嫌いになるケースでは、不本意な大学入学や受験勉強からの解放による緊張感の消失、または勉強とは何か、学ぶとは何かに疑問をもつ。その解答が見出せずに意欲を喪失するといったことがその主な理由である。ひどい状態では無気力、放蕩、神経・精神障害、自殺に追い込まれることもある。
新たな視点からの教育
そもそも勉強とは、勉め強いることだ。勉強とは「読み書きそろばん」であり、それを勉強の基礎とするのだろうが、現代社会における学校での勉強とは何か?さらには、大学における勉強または学問とは何か?近代国家での教育は、国家運営に有用な国民を確保することが目的である。よってそのために必要な最低限の勉強を国民の義務とするのが義務教育であり、より一層高水準な国家への発展をめざして高等教育を半ば義務教育化するために高校や大学がある。だが、全国民が学問を好きになることは不要で、一部の有能な人材と、多数の質の良い「フォロワー」がいればよいとされる。ということからすれば、勉強嫌いな大学生が多くても、研究重点大学やエリート養成大学さえ確保していればよく、その他は一定の「品質」さえ確保されていれば大きな問題にならないのである。これが国家運営から見た教育である。
一方、国民の視点から見た教育とは何か?その答えは人間一人ひとりの資質を開花させた豊かな人生を送ることに教育の目的があり、学校教育がその基礎となりきっかけとなる。しかし、学歴・学校格差によって、国民の視点からの教育が等閑にされているどころか「壊滅」しているのが現代日本の教育である。それではいけないと生涯教育とか社会教育が唱えられ、そのための機関などが整備されたり、オータナティブ学校運動が起こりつつあるが、競争社会における学校教育制度が確固たるなかで大きなムーブメントになりえていない。
現実の経済・社会システムの中で国民視点からの教育が実現されなければならず、小学校から大学までの学校教育制度の改革と社会教育の充実が必要である。そのためには、いかに国民視点からの教育を実現するかを基本においた改革を行うかが課題であり、突き詰めれば、国家による統治教育の廃絶から始めなければならないだろう。いまや日本の教育は自由なシステムに委ねても混乱しないまでになっている。受験競争という「ラッツレース」をさせて青少年の自律精神を貧困化し、新しい身分制度を助長する現行の教育制度、学校制度を廃棄する。そして「協育運動」の理念にもとづく学校や、その他人間の福祉の向上を目指すユニークな学校が、そのなかから多数生まれることを期待するものである。FC2 Blog Ranking
2006年11月28日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
考える葦
「協育」の基本は弱者の意識です。
「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」。これは『パンセ』の一節ですが、なぜか「考える」という点だけが注目され、それが思索、思考、分析に発展し、思想や発明に拡大さされて文明化、近代化へとつながっていきました。「人間は考える葦である」というとき、後半の「葦である」という点にこそ注目すべきなのです。川辺で風にゆれる頼りなげな葦。そのような存在としての人間。その意識が基盤にあって、考えるという営為が人間の特質だということなのです。
自然界で種子から成長してやがて繁茂するようになっても自然の一員です。それが生命あるものの普遍的な特質です。たまたま人間は考える生物になったのですが、本来、自然の一員なのであり、荒々しい自然の変動になかでは弱きものです。
ところが、いつの間にか人間は「強きもの」と錯覚され、または限りなく「強さを願うもの」と思い込むようになっていた。考えるという特質が肥大化し、自然を加工し克服するための思考を絶対視するようになったのです。そのために国家、企業、組織が人々を総動員する推進機関となりました。そして教育がそれを助長する手段になってしまいました。
教育を文明や国家・企業運営のために利用するのは統治者の都合なのです。強者優先の排除・差別を助長する教育は、パスカルのいう「考える葦」とは異なものといえましょう。FC2 Blog Ranking
2006年11月21日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
ペースメーカー
ペースペーカーとよばれる人がいる。マラソンは42.195kmを走りとおすのだが、途中まで先頭きって主力選手たちと走り、マラソンのペースを引っ張っていく人たちだ。これらの人はトップ集団の一流選手だと思ってしまうし、逆に、なぜそんな実力があるのなら最後まで走り通さないのかと思ってしまう。でも、これらの人はマラソンの途中で本命の実力選手たちに先を譲り退いてゆく。実際、最後まで前半のリードの速度は保てないのだ。
受験戦争の秀才たちは、必ずしも人生の実力派の本命選手たちとは限らない。本物の実力選手たちを引っ張っていくことはできても、その多くは先頭を譲るしかない。しかも、先頭集団に遅れて走っていた選手の中には、いつの間にか先頭集団に追いついてトップになることだってある。 ペースメーカーを学歴や学校歴でリーダーとして持ち上げてリーダーにいたりすると失敗する。組織としてだめになってしまうことさえある。
しかも世の中にはいろんな領域があって、偉大な小説家や音楽家、画家などは旧帝国大学系の出身者はほとんどいない。秀才たちは、たとえば官僚にはむいているかもしれないが「創造的な破壊」という営為などには不向きなのだ。
一時期先頭を走るペースメーカーたち。多感な少年時代、青春時代に受験戦争に従順だった「秀才」に過ぎないペースメーカーたちに、「エリート」「勝ち組」のレッテル付与するという愚かなことはそろそろやめなければならない。
2006年11月19日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
プラハ
誰しも一度は訪れたい国や都市などがある。そんな思いがありながら、結局、旅に出られないのだが、私もそんな一人だった。チェコのプラハには長い間行きたいと思っていたがチャンスがなかった。
ところがついに、今秋、行くことができた。日本から十数時間、フランクフルトで乗り継ぎプラハ空港に着いたのは夕方に近かった。ひっそりした地味な空港だった。ホテルに着いて荷物の整理もそこそこにプラハの市内に向かった。夕暮れのヴルタヴァ川にかかるカレル橋、やや遠くにプラハ城が見えた。美しかった。ヨーロッパの都市のなかでこれほどまでに「端正」で「優雅」な風景はないとさえ思った。時差や疲れも忘れていた。パンフレットや本に載っている写真とくらべて桁違いの迫力だった。プラハ滞在の4日間の初日から、私はすっぽりとこのヨーロッパの伝統の残る都市の魅力に包まれてしまった。
プラハ市内は主に地下鉄を利用して移動した。団体で歩き回るのは嫌だった。少しでも市民の生活に近づきたかった。たった4日しかない。そんな焦りを初日から感じはじめていた。
プラハ市内の建物は多くの建築様式を実際に見ることができる。まさに生きた建築芸術都市といえるかもしれない。いたるところの建物に彫刻が施されている。そしてプラハは「アール・ヌーボーの街」でもある。それは『プラハを歩く』(田中充子,岩波新書)に記されているとおりである。夜、市街地を歩いていても危険なことはほとんどない。光に映しだされたヨーロッパ建築。うっとりするような光景のなかを歩く。
これほどまでに芸術性豊かな建築が多いプラハには、これからももっと多くの観光客が訪れることだろう。宗教戦争のことや、1960年代に「プラハの春」の悲劇が起こったこと、社会主義革命が帝国主義に陥り、かつてチェコをも侵食していた歴史に深く思いを馳せることなく観光客で賑わうことであろう。歴史は粛然と人々を飲み込んでいく。終わらない出来事はなく、すべての出来事は終焉し「現在」が何食わぬ顔をしている。
共産主義博物館を訪れた。なんとそれは「カジノ」の建物に隣接していた。その博物館はチェコスロバキアが社会主義国のひとつだった歴史を堂々と残すというのではなさそうだったが、刻まれた歴史を示し続けている。そこに高校生たちも課外授業の一環で見学に来ていた。そしてまじめな態度で記念物、写真、ビデオなどを見ていたのだった。
通貨はコルナ。チェコは遅まきながらでもEUに加盟しているからユーロが普及しているのかと思ったが、日常生活にはユーロではなくコルナが多く使われている。露店で果物を買ったが当然のようにコルナで支払った。EU加盟に反対の国民も少なくなく、通貨転換に容易に組しないチェコ国民の気持ちのあらわなのだろうか。
カフカ博物館に行き、その後、カフカの生家跡に飾られた顔の彫刻を見て、名作「城」「変身」などを生んだ偉大なユダヤ人作家を偲んだ。 ユダヤ人街区を歩いた。世界の被差別人民「ユダヤ人」は差別されることをばねに大いなる活動を展開していたことがわかる。
一日だけプラハを離れ、15世紀、宗教改革運動フスの戦いの軍事拠点だったターボルという都市に足をのばした。ジシカ広場に面して立つ教会の塔に登り上から一望すると街間並は周囲に緑が多く平和で落ち着いていた。その下には総延長12kmといわれる地下道が今なお眠っていることなど忘れてしまう。宗教をめぐる正義と怨念の闘い、流血の歴史がいまや表面上では浄化されていた。ターボル駅で、帰りの少し遅れていたプラハ行きの列車のプラットフォームを教えてくれた少年のあどけなさと純朴な態度が今も心に残っている。
感じのよさそうな店を見つけてはチェコの旨いビールを飲み、郷土料理を楽しんだ。しかし心残りはある。コンサートを聴きに行ったり、ムハ美術館やプラハ以外のいくつかの都市には行けなかった。限られた日数ゆえに仕方ないことだが、心残りだ。歴史上で代表的な建築様式の建物ももっとゆっくり見回りたかった。インターネットで見るとプラハに移住している日本人も少ないないらしい。その気持ちは十分理解できた。4日間、歩き回った後、一路ウィーンに向かって列車に乗り込んだ。
帰国してからチェコに関する本を何冊か読んだ。また、チェコに是非、行きたいと思っている。
2006年11月19日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
ソウル街歩き、食べ歩き
仁川国際空港からソウル市の中心部に入る高速道路を走る車窓からは近代化された風景が見えてくる。郊外に高層マンション(アパート)が立ち並び漢江には多くの橋がかけられている。整備された道路を走る車は多く、時間帯によっては道路を埋めるくらいになるという。高級外車も走っていたが日本車は見なかった。ソウルオリンピックの開催を前後に急速に近代化した韓国は資本主義経済を「血肉化」し確実に東アジアの経済で日本と肩を並べるまでになった。
かつて一時期日本が朝鮮半島を不埒にも侵略・統治していた。日本の敗戦後、今度はアメリカ及びソ連帝国主義が半島を南北に分断した。その南の国家が「韓国」である。この国にはかつて軍の主導する政権の時代もあったが、今や議会制民主主義による大統領制による政治が行われている。日本のような「天皇制」なんかはない。侵略された歴史はあるが侵略したことはない。
ソウルの繁華街は活気にあふれている。人々は誇りと自信を持っているようにも見えた。一千万人都市ソウルは、商業地の明洞、東大門、南大門、巨大な電気街の竜山地区、市内に数箇所ある巨大な「市場(シジャン)」も賑やかである。新興の街(清潭洞等)と旧市街が混在していて興味深い。落ち着いた感じがする仁寺洞ギルは歩いていても気持ちよく、少し入ったところにある伝統茶院という韓国式カフェは落ちつけるすばらしい店だった。大学も市街地内外に点在している。観光地区(景福宮や昌徳宮などがある鍾路周辺地区等)以外にも市民や観光客が行きかう街が多くあるのだ。
食べ物店は焼肉店をはじめ非常に多い。新村駅周辺は特に旨い店が多く、私が入った「焼肉店」(チョンギル ワンカルビサル)の塩焼肉(ソグムクイ)は絶品だった。東大門地区や三角地の路地にある鍋料理も忘れられない。本場の韓国冷麺やチジミも美味しい。どの店もキムチなどの突き出しが無料で出るのもうれしい。市内には西洋料理や日本料理の店は少なかった
ソウル市民は元気で気さくな感じだった。たった4日間滞在であったが、街や店で3回も声をかけられた。英語で日本のことを聞いてきた2人ずれの女性もいた。飲食店では日本人とわかっても気軽に接客してくれる。百貨店などの店員はやや強引な販売をする。街を歩く若者たちは日本の若者とどこか違ってみえた。特に女性が元気なように感じられた。知的な顔立ちの「韓国美人」も何人か目にした。
昼下がり、急に小用の必要を覚えた。街角の食料品店に入って「トイレを貸してほしい」と頼むと、ビルの共用トイレの鍵を貸してくれた。その自然な態度にはかえってこちらが恐縮したほどだった。夜、目指す焼肉店を地図で探していると、近くの中年女性店員が地図を覗きにきて「その店ならあっちだよ」と競争店にもかかわらず笑って教えてくれた。
特に感心したのがソウルの地下鉄だ。縦横に走る地下鉄(1号線から8号線まである)線は多くの市民が利用する。そんななか、物売りが車内に突然現れたり、足の不自由な障害者が車内通路を「いざりながら」物乞いしたり、電動車椅子に乗った中高年の客が、やや混んでいる地下鉄の車内に一気に扉から「突入」してきたのには驚いた。乗客たちは一瞬びっくりしていたが、すぐ平静に戻っていた。車内でも携帯電話で話す人も多く、別段「マナー」を求めるアナウンスもない。しかしそれなりにみんな礼儀正しい。これらはソウル市民のある種の逞しさの現れではないか。
ロングシートはやや固めだが、一人がけ用に区切りが少し隆起していて席の譲り合いあいしなくても自然に隙間なく座れる。車内の吊り広告は日本のものよりやや短めなので背の高い人でも苦にならないし吊りの間隔も広く見通しがよい。各駅には番号が振られていて数字が大きく書かれていてわかりやすい。T-Moneyという代金前払い充填磁気カードは便利でかなり普及している。エスカレータも多く設置されているが、まだ日本のほうが整備されている。FC2 Blog Ranking
2006年11月13日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
教えない教育(その2)
平井雷太さんの『教えない教育』(日本評論社)を読んで共感するところが多かった。
<学校教育の隠された目的が「一部のエリート(?)と言われる人たちを奉るために、「自分はだめだ」「できが悪い」「人に使われて当たり前」と思う人間を大量に生産する必要があったのだろう。>
この指摘は痛烈だ。
(治さない医療というのにも言及されているが、これも興味深い。私の体験と日ごろの思いにぴったり一致した)。
平井さんは<学校信仰からの離脱>を訴え実践されている。
生徒のセルフラーニング力(資質)を信じるところから出発している。
現実はどうか。
ラッツレース(ねずみの一斉かけっこ)。
そのなかで教育が、競争社会や管理社会のツールに陥ってしまっている。
新身分制度の勝ち組に入るためにはそれも仕方がないという親たち。
TVでは競争番組が多いこと。日曜日の昼さがり、ほとんどのチャンネルがスポーツ番組などの「競い」を放映していた。休むことも許さず、競争が日常意識に植え付けられている。
そうやって作られた多くの「自分はだめだ」「できが悪い」「人に使われて当たり前」と思う人間たちの頂点に、新身分制度のエスタブリッシュメントたちがいる。そして、それらさえも睥睨しながら「天皇」が君臨している。エリートもそこでは面従腹背で跪いている。
協育運動はそのような社会を解体し再構築していく社会運動であるといえよう。
「教えない教育」を勝ち組への新手のツール・思考や、安易なオルタナティブメソッドに変質させないないためにも。↓
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2006年08月22日 | 未分類 | トラックバック:0 | コメント:1
芦塚陽二さん
音楽「協育」を実践するすばらしい音楽家がいる。
鈴木メソッドとは対極の音楽教育理念による方法
で子供たちに音楽を教える。
楽しみながら、遊びながら、教えあいながら音楽を
習得するだけではなく、教える側と教えられる側、
そして教えられる側どうしが自らの音楽資質を育ん
でいく。
早期才能教育、音楽環境整備、基本反復という
競争、選良、排他の思考と方法とはまったく違う。
才能自然開花、共感、協育が基本なのだ。
子供たちのサイズに楽器を合わす、教室で音楽
を忘れて教師と子供が遊ぶ。子供たちは帰宅し
てから自然に楽器を手にして練習し始める。
子供たちがいやいやながら音楽を特訓させられて
楽器が弾けるようになって何になるんだ。
音楽教育界におけるCooperative Education Movement(CEM)
の実践家、芦塚陽二さんは自然体で活動しておられる。↓
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2006年07月29日 | 未分類 | トラックバック:0 | コメント:6
ステレオロタイプの低級右翼
葛西某とかいうJR東海の会長の話を聞くことがあった。
一言で言えば、こいつは旧国鉄管理職上がりの反動馬鹿だ。
「日本国憲法九条は日本の恥部だ」、「軍隊と経営は同じだ」「日教組が悪だ」、「エリート崩れが、ジャーナリストになるんだ」とか。根拠も脈絡もなく話す。
こんな単純馬鹿、ステレオロタイプの低級右翼もいるんだ。
JR東海もこんな輩を会長にしていて良いのか?管理、管理で大事故起こすよ。
海陽学園とかいう学校もこいつが中心になって作ったらしい。とんでもないことだ。健全な若者たちの批判精神をもぎ取り寮生活でマインドコントロールする。こんな学校の卒業生が、もし、企業などで将来リーダーになったらみんな背を向けるよ。葛西よ、もうこれ以上、害毒を社会に垂れ流すな。↓
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2006年07月28日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
天皇 不快感
靖国神社にA級戦犯が合祀されていることに、昭和天皇が、
以前「不快感」を示したとの発言メモがあって、それが
新聞報道されている。
とんでもないことだ。A級戦犯より重い犯罪者が天皇なのだ。
不快なのは生き延びた天皇自身の存在ではないのか。
天皇が処刑されたり自決していたら、日本という国が保持でき
ていなかったろう、なんていう説がまかりとおっている。
馬鹿な。どこにその根拠があるのか?
骨の髄までアメリカナイズされた「分け前」享受の奴たちめ。
天皇の発言がマスコミで出てくること自体不快だし、危険である。
国民は決して操作されないように注意しなければならない。
またしても天皇(制)を利用しようとしている輩が国内外に蠢き
つつある。
アメリカ型の経済社会、そして人民統治のための「アメリカ型文化」が日本をここまで変質させた。そして、すべてのものを証券化し投機の凶暴を黙認する金融経済がその底辺に横たわっている。それもまたアメリカ型経済システムなのだ。敗戦国の日本は、換骨奪胎されるにとどまらず、アメリカに追従し加担しているという厳然たる事実からすべてを見直すべきである。元凶、腐敗の根本の根絶。
そのアメリカに命乞いして延命してもらったのが最悪戦犯の天皇アキヒトである。民衆管理システムとしての天皇制については、すでに桑原重夫氏が指摘している。天皇よ、日本の薄汚い権力よ、この桑原氏の指弾を受けよ。
天皇よ、日本の薄汚い権力者たちよ、この惨劇の責任の根源が、天皇制という「日本の社会経済の矛盾隠蔽システム」にあることを銘記するとともに、天皇がその中枢に位置し本質的に加害者であること、加えて、かつて潔く戦争責任を負わなかったことなどをあらためて自覚せよ。
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2006年07月22日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
大和魂
サッカー、ワールドカップで日本が敗退した。
1勝もあげられずに。
作られたようなブームで胡散臭い感じがあった。
何の感慨もない。
日本チームが負けたとき「大和魂でこれからは
やっていってほしい」と視聴者が言うのをテレ
ビが放映していた。
何? 大和魂? ついつい天皇制に通じる思考
がこんな時にも顔を出す。
何かというと、口走る「大和魂」。
それはいったい何なのか。なんとなく、突撃、
特攻、万歳!なのだ。
危うさ脆さ、利用されないように注意しなけれ
ばならない。↓
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(ポイントがつきました!)
2006年07月18日 | 未分類 | トラックバック:0 | コメント:0
協育の芽と可能性
「協育」は人間の成長において特有のものです。
人間以外の動物では、切磋琢磨してともに育み合いながら
成長するってことはありません。そのように遺伝子が構成
されているのです。
精神活動の本質も「協育」にあるといってよいでしょう。
だからこそ、協育は学校にだけ求められるのではなく、
もっと広くとらえられるものではないでしょうか。
家族、地域社会、会社など、豊かな精神活動の可能性がある
ところに「協育」があります。
逆に、軍隊や圧政国家には「協育」がありません。そこでは
その芽を摘み取ります。
管理社会化の進展は「協育」にとってマイナスに作用します
から、管理の罪をその点から指摘しておきたいのです。↓
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2006年07月11日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
男女共学
男女共学という形態は、性による差別をなくして、
男と女が同じ教育の場で学ぶことだと思われている。
だが、そんな形式的なことは封建遺制からの脱皮か
らの視点であって本質的なことではない。
男女がともに学ぶことによって、相互の性の特質を
学ぶ。人間の性という根源にかかわるさまざまなこ
とを学ぶ。そして成長していく。ジェンダーをもちだし
単に性の差をなくして捉えるのは間違いだ。
男女「協学」であり、それを教えたり互いに学ぶのが
男女「協育」なのだ。
性および異性の歴史と文化、その本質。それらを観念
ではなく現実として学び、本源的意識を育みあう。
教師も自らの性を基軸にしながら、そのような「協育」
にたずさわっていく。↓
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2006年06月25日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:4
天皇って?
別に天皇っていたって、どうってことない。関係ないもの。
「皇室アルバム」見てると、つくづく微笑ましい家族って感じするなあ。
世界でも珍しいらしいよ。日本の天皇制って。
やっぱり日本民族は大きな家族なんだと思う。
天皇は象徴だから無害だよ。利用する奴がいれば、そいつこそ悪いんだ。
正月2日の皇居での一般参賀。手旗日章旗。
叙勲儀式や皇居での園遊会。緊張しながらも嬉しかったと言う人々。
先の太平洋・アジア戦争で、国家の最高権威者として戦争を指揮した天皇。
沖縄戦で国民を見殺しにし、広島と長崎で多くの原爆犠牲者を生んだ張本人の天皇。アジア各国と日本の多く民の尊い命を奪い、多大の損害を与えた元凶である天皇。
にもかかわらず、敗戦後、天皇はアメリカの策謀に甘んじ自ら延命を決め込み、能天気に生きながらえている。天皇は民の暮らしや人間の尊厳を蔑ろにした。
天皇そして皇族たちよ、全員ただちに懺悔せよ。そして自ら潔く。
やられたものや被害者はいつまでも忘れない。そしていつも敏感である。
やったものが厚顔無恥で鈍感であればあるほど。↓
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2006年06月07日 | 未分類 | トラックバック:0 | コメント:0
良寛のように生きたい
プチナショナリズム、ソフトファシズム社会ってものじゃない。かなりひどい世の状況です。「ゴミだ!」とはき捨てるように言い放つ人がいる。多くの人が、いらつきながら差別意識を露にするようになり、天皇が対極として持ち出されてしまう。
振り返ると、むきになったり、忙しくしていると自分が認められていること、期待されていることの証とばかり勘違いする。
時間が流れ、何やかやとやっていると「円熟」を知る。円熟とは自分の歴史を知ること(小林秀雄)なんていわれそうですが、それは「高級説教師」小林秀雄の言葉と受け流すことにしています。
最近、癌で死んだ友人の死に思いを馳せ、P2P技術に情報化時代のアナキズムを夢想する。たまに仕事で地方に出かける。
大阪の昔の仲間,1年ほど前に吐血したとのこと。食道の静脈が少し破れたらしい。今は自重し持ち直したという。彼は元気が売り物だった。化学者なのに、今は岡山県の有名な指圧者のもとに通っている。病気や身体の話題が必ず出る年代です。
生涯現役でいたい。でも、その内容が問われます。良寛の生き方が望ましい。田川建三も良い。大杉栄、妙好人などにも惹かれます。 ↓
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2006年06月06日 | 日々雑感 | トラックバック:0 | コメント:0
NHK
本当にそうなの? NHK。
「NHKは思想的に中立で良識のある職員によって運営されている。客観的な裏づけもしっかり取り、真摯な報道番組作りをしている。ドキュメンタリー番組もまたしかりである。さらには、公平性と「常識」の視点から、日本国民全体に娯楽番組も提供している。視聴率奴隷(スポンサーへの商業主義的隷属)の民間放送会社とは画然と違う」。
しっかり見つめ直す。
NHKの見せかけ中立主義、無意識の権力迎合寓意の創作、胡散臭い教養主義。これらへの気づきこそ、国営放送NHKとの対峙の第一歩であり、糾弾の原点ではないか。
生き物地球紀行 : 淘汰の寓話
大河ドラマ : 事大主義
堂々日本史 : 精神鼓舞
NHKスペシャル : 教養主義
連続ドラマ : 健康優良児
ニュース解説 : 中庸啓発普及
歌謡ショウ : 大衆慰楽サービス
地方民俗番組 : 非論理礼賛
政治討論会 : 浅薄な似非公正討論
NHKの欺瞞を許さない。 ↓
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2006年06月01日 | 未分類 | トラックバック:0 | コメント:0